手記集「いのちの叫び」
妻の支えと母への思い
55歳・男性
愛知県在住/肝硬変
自分の体内にあるB型肝炎ウイルスの存在を知って
私が自分の体内にB型肝炎ウイルスがあることを知ったのは、1993年の血液検査でのことでした。
1999年のある朝、会社へ行くこともおっくうになりました。大学病院で検査を受け、医師から「B型肝炎が慢性化し、ほとんど肝硬変といってもいい状態です」と告げられました。今まで体がだるいことが多かったのはこれが原因だったのかと認識すると同時に、この先どうなるのかという不安でいっぱいになりました。1か月の入院により数値は正常な値に戻り、腹水もなくなりました。しかし、肝硬変であることを告げられました。医師からは「100%重度の肝硬変、肝癌になるわけではないから、うまくつきあってこれ以上悪くしないことが大切だ」と言われました。
希望退職の勧告を受けて
退院後、なんとか職場に復帰しましたが、通院を続けなければなりませんでした。会社に入院中の長期休暇を申請するのに診断書を添付しなければならず、そこには「B型肝炎ウイルスによる肝硬変」とありました。このときから上司や同僚の私に対する見方が変わりました。体のだるさを理解してもらえずに怠けていると誤解され、だんだんと仕事を与えられなくなりました。そしてついに2002年、上司から希望退職の勧告を受けました。勧告に従う義務はないのですが、拒否した場合は遠方への配転や転籍もあったので、事実上退職を拒否できませんでした。結局、依願退職の形で23年間働いた職場を去らなければならず、心に大きな穴が空いたようでした。病気への偏見なのか、送別会でも話しかけてくれる同僚はほとんどおらず、挨拶もないまま散会となる形ばかりの送別会でした。さらに追いうちをかけるように「希望者は2次会へ行くが、君は疲れるだろうから早く帰りなさい」と言われ、追いたてられるように帰宅しました。
妻の支え
次の職場を探すため斡旋会社に登録しましたが、そこでもB型肝炎ウイルスは壁になりました。履歴書には既往症等の健康状態を記入しなければなりません。「履歴書を提出しても返送されてしまいますよ」と担当者に困った顔をされました。
このとき、私の心の支えは妻でした。妻は、私が働いているときは主婦をしていましたが、仕事がなかなか見つからない私に、「あなたは病気なのだから、体をゆっくり休めて。その代わりに私が働くから。収入は落ちてしまうけれど、切り詰めて二人でがんばりましょうよ」と言ってくれました。その時ほど嬉しかったことはありません。今も健気に、自分の仕事が忙しい時も私を心配してくれています。
退職後、最初の3年ぐらいは会社の夢を毎日見ました。今でも時々見ることがあります。そして、妻が自分の代わりに働いていてくれることに感謝しつつも、自分が働けないことに対して大きなストレスもありました。
母への思い
母も、私の病気のことを大変心配していました。母子感染ではないか、自分に責任があるのではないかとの思いでいっぱいだったようです。真実を知るのが怖かったのか、血液検査にも行きませんでした。その母が72歳で倒れました。心筋梗塞でした。私への気持ちが心臓を悪くしたとは思いたくありませんが、病院へ運ばれて3か月間、一度も外に出ることもなく死んでいった母に、私はすまない気持ちでいっぱいになりました。母が亡くなった後、母がB型肝炎に感染していないことを知りました。母が生きていれば、さぞかし安心できただろうにと思いました。
友人の死と肝がん進行の不安
年賀状をやりとりするだけの付き合いになってしまった私の中学時代の親友から、毎年来るはずの年賀状が来なかったことがありました。私は「今年は出し忘れたのかな?」程度の軽い気持ちでいましたが、半年ほど経って奥様より訃報の知らせが届きました。驚いて電話をすると、友人は肝臓がんで亡くなったとのことでした。そして、その友人もB型肝炎ウイルスのキャリアであったことを知りました。B型肝炎ウイルスがあると肝がんにまで進むということは頭では理解していたつもりでしたが、友人が実際に肝がんで亡くなったと知らされて、寒気がしました。
何の罪もない子どもがB型肝炎ウイルスの危険にさらされ、実際に発症して亡くなった方も多いと思います。私の友人のように、まだ若くして他界される方もいます。国には適切な解決と原因究明、そしてB型肝炎患者が人目をはばからずに生きていくことのできる社会にするよう、切にお願いいたします。