手記集「いのちの叫び」
肝がんによって26歳の若さで死亡した次男
享年26歳/死亡
62歳・女性(遺族)/奈良県在住/キャリア
私は集団予防接種による感染被害者で、無症候性キャリアの状態です。子どもにB型肝炎ウイルスを母子感染させ、26歳の次男を肝臓がんで亡くしました。
次男は、高校を卒業して会社に就職し、5年つき合った恋人もいて結婚を考え、まさにこれからという時期に亡くなりました。次男は、親の目から見てもとても責任感の強い優しい子でした。また友達を大切にする子で、お葬式には友達が100人以上出席してくれました。今も次男のお墓にいくと、命日には必ず友達がお供えしてくれており、私たち夫婦にとっては、できすぎたかけがえのない息子でした。
肝臓がんの宣告
次男は、平成15年12月ごろ、関節痛で病院に行きました。その後、平成16年2月に主治医より「肝臓がん」と宣告されました。平成16年2月16日に入院して、すぐに私たち夫婦は担当の医師に呼ばれました。「あと4か月くらいの命だと思ってください」と告げられ、その言葉に目の前が真っ暗になりました。入院してから1か月くらい経って主人が呼ばれ、次男の11センチ大の腫瘍は、B型肝炎ウイルスが原因で、感染の原因は母子感染の疑いが強いと言われていました。しかし主人は、余命4か月と知らされてショックを受けている私にそのことを伝えられず、私はずいぶん後になって知りました。
私は、次男ががんで余命わずかと知らされて以来、家では泣いてばかりで食事ものどを通りませんでした。けれどもあの子の前では泣き顔を見せられないと思い、私も主人も病院では必死で涙をこらえて看病をしていました。
病気の悪化と死
日を追う毎に、次男の病状は悪化しました。最初は、自分の足でゆっくりですが歩くことができていました。しかし、がんは体の至るところに転移し、最後は脊髄に転移しました。この転移で次男は自分の足で立つことができなくなり、車いすでの生活がはじまりました。それでも次男はまた歩けると考え、リハビリに一生懸命でした。私たちもリハビリをすれば歩ける様になるという希望までは奪えないと思って、私も主人もあえてリハビリをやめさせることはしませんでした。
亡くなるまで、私と主人は次男のベッドの横で病院に泊まり込みました。どんなに苦しい状態でも私たちを案じ、「こんな身体になってごめんなさい」と言っていた次男ですが、亡くなる1か月ほど前、病院の消灯時刻の後、「お母ちゃん、手を貸して」と弱々しい声で言ってきました。私が手を出すと、次男は力一杯握りしめてきました。不安で不安で、私の手を求めていたのだと思い、「大丈夫やからね。大丈夫、大丈夫」そう言ってしっかり握ってやりました。
亡くなる数日前から次男の足が冷たくなり、温湿布や交替で足をさすっても温かくなりませんでした。私も主人も自分達のできることは足をさすることぐらいで、親としてできることがなく、次男の苦しみを傍で看るのが辛くてなりませんでした。次男は、6月13日明け方5時59分に死亡しました。
母として
次男が死亡し、私たち夫婦は生きる力をなくしました。何年か過ぎてB型肝炎のことがテレビで報道されて、予防接種による二次感染のことが新聞に書かれていました。「まさか、私も?」と思い、それでも「もしそうだったら」と真実を知るのが怖く、何度も検査を受けるのを躊躇しましたが、亡くなった次男のことを考え、調べてもらいました。主人は陰性で、私は陽性でした。私の病原がすべてあの子にいったのではないかと自分を恨み、国を恨みました。
主人もたぶん母子感染であろうと思いながら、今まで私を責めることは一度もありませんでした。長男も仲の良いたった一人の兄弟を失い、長男自身もキャリアであることが判明し、私に対する気持ちは想像もつかない葛藤があったと思います。私は自分が原因で次男を死なせてしまったことに、家族に対して本当に心から申し訳なく思っています。
子どもがお腹に宿れば十月十日慈しみ、大切に育て、生まれれば穏やかで幸福な人生を送って欲しい。いつの世も親が子を思う気持ちは同じです。私たち夫婦も次男を大切に思い、26年間育ててきました。しかし、私の子どもは4か月間苦しみ抜いて苦しみ抜いて、26歳の短い生涯を終えました。私は次男を失い、肝炎患者とわかって以来、心から笑ったことはありません。
国は私たち被害者に目を向け、例えわずかでも心から笑える生活を行えるよう、被害者が一歩でも前を向いて歩ける様に救済してもらえたらと思います。